私たちにとって平和とは何か
――キリスト教社会福祉の使命――


日本キリスト教社会福祉学会第57回大会(2016年6月24日~25日・関西学院大学)に、川上事務局長が登壇し発題しました。
その 発題内容を以下にご報告します。

(2016年8月31日 東北ヘルプ理事阿部頌栄)

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私たちにとって平和とは何か
――キリスト教社会福祉の使命――


NPO法人「東北ヘルプ」事務局長 川上直哉
(日本基督教団仙台北三番丁教会 担任教師)



1.自己紹介
(1)母のこと
福祉現場についての私の知識は、きわめて個人的な事柄にさかのぼります。母はケアマネジャーとなり、長く介護保険関係の仕事について後、いくつかの高齢者施設の責任者を歴任して、今は引退しています。
その母から聞かされる介護保険関連の福祉の現場の事柄は、いつも生々しく、そして、どこか「管理者としての福祉論」でした。現実の冷徹な側面を、私は母から直接聞いていたように思うのです。

(2)支援現場
私は、2011年3月以来、被災地の現場で支援の働きに従事してきました。
津波災害の現在は、「支援からの福祉への最終段階」といえると思います。津波で自宅を追われた数十万の人々が、避難所暮らしを経て、仮設住宅にお住まいになりました。今、もう一度、引っ越しの時期となっています。つまり「復興公営住宅」への転居が、徐々に、しかし確実に、進んでいます。これまでは「支援」と呼ばれた事柄が、これからは「福祉」と呼ばれる事柄となるでしょう。
原子力災害の現在は、とても深刻です。被害の「矮小化」が進んでいます。決して、政府や一部企業だけの問題ではありません。多くの一般市民の意識が、「矮小化」を進めています。そして、それが「複雑化」した現実を生み出しています。ぜひ、別紙資料 の4と5と6、そして「原子力災害ハザードマップ 」をご覧ください。それで、原子力災害の被災地の問題は「深刻化」している。「矮小化」が「複雑化」した現実を作り出し、「複雑化」した結果として対応がとりにくくなり、そして「深刻化」する。その現場では、現実を語る言葉を押しつぶす「沈黙させる空気」のようなものが、よどんでいます。そういう流れに、原子力被災地の現在があります。
そうした中で、キリスト教会の様子はどうなっているか。一つの深刻な現実があります。それは、「教会が復興して、宣教が終わる」という逆説的な現実なのです。ここで「宣教」という神学用語を使いました。これは、「ミッション」という言葉の翻訳です。被災した教会は、避難所や仮設住宅へ出向生き、「相談援助業務」というべき働きを担いました。その中で、教会の「ミッション」が何であったか、私たちは再認識させられました。でも、教会堂が再建され、日常が戻ってくると、その「ミッション」は終わってしまう?――それではいけない、と、仲間と話し合っているところです。

(3)「出会う会」のこと
別紙資料 の1をご覧ください。2013年6月4日付の記者会見発表資料です。支援の現場に立つ社会学者と心理士と宗教者が、阪神淡路から東日本までの大震災現場での支援の在り方を反省し、さらに相互を支えあうネットワークが構築できればと願い、ワークショップを開始する、ということを告知しています。この会は、現在も2か月に一度開催され、17回の対話とその記録が積み重ねられてきました。


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そこで確認された重要な概念があります。それは「職能」という概念です。報酬を保証し、分限を規定して、「職業」が定められます。それは支援者各位に“安定”をもたらすでしょう。しかし、規定された分限が臨機応変の対応を阻むことにもなります。そうした「職業」で得た能力(つまり「職能」)を用いて、ボランティアに出て行く、ということが、求められているし、多くの人が始めていることではないか、ということなのです。


2.社会福祉の使命:問題提起
次に、本日の私たちのテーマの副題「キリスト教社会福祉の使命」を巡って、一つの問題提起をします。別紙資料 の2をご覧ください。「出会う会」の第三回目の記録ですが、発題者として天野宗和氏をお招きしました。天野氏は精神保健福祉という分野を国家資格のレベルまで組み上げた、その担当者です。

(1)社会福祉の定義
天野氏は、福祉の定義を「出会った人だけでも支えよう(とすること)」としていました。そして、「社会の中で出会った人だけでも支えよう」となれば、それが「社会福祉」だ、と定義されたのです。それは、とても分かりやすい説明でした。

(2)専門化・職業化の裏面
別紙資料 の2の6ページをご覧ください。以下のような発言が記録されています。

「自立支援法」以降、ペーパー・ワークが増え、「ケアマネ的」になっていることが、懸念されている。同機することの大切さは、薄れる。昔は本当に大変だったけれど、ドタバタしていた、その中に出会いがあり、学びがあった。それが現代は、できなくなってきた。


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私は、この言葉に、本日のテーマについての問題提起を読み取りたいと思うのです。
天野氏によると、「精神保健福祉」という分野が未定型であったころ、現場は本当に大変だった、けれど、そのなかで「出会った人」の思いに「同期」する訓練が、現場でなされてきた。その訓練が、制度化を経た今、できなくなってきている。ということでした。それはつまり、現場での支援を持続可能なものとして「専門化・職業化」した、その裏面が今、明らかになりつつある、という証言です。

(3)支援現場の現状
天野氏の指摘は、私たちの支援現場で、まさに現実を言い当てています。震災直後、大勢のボランティアが支援のために結集しました。そのうちの少なくない人々は、現地に残りました。被害が甚大だったからです。支援の働きは、際限なく続きます。支援者は、現場では、あくまでも支援者として存在します。そしていつしか、募金は細くなり、生活が成り立たなくなる。そうして、アルバイトを必死にこなしながら現場に立ち続ける支援者が、出てきている。そうして、燃え尽き、あるいは困窮し、そして難民化する支援者がでてきました。この問題は、切実です。ですから、制度化した福祉の力を借りなければ、と思います。でも、制度化した福祉で、本当に、この複雑な現場に対応できるのか。制度の枠組みに現場をはめ込むようなことに、なってしまわないだろうか。そうしてしまったら、「出会った人だけでも助けよう」という福祉の姿は、消えてしまうのではないか。
結局、「持続可能性」と「使命(ミッション)の維持」とが、二律背反状態にあるのだと思います。ここに、「キリスト教社会福祉の使命」という今日の副題をめぐる問題提起がなされるのだと思うのです。


3.キリスト教と平和:キリスト教的支援者の職能
次に、本日の私たちのテーマの本題「キリスト教と平和」を巡って、上記に提起された問題に解決をもたらす手がかりを提示します。

(1)Just Peace?:アジア・アフリカからの異議
別紙資料 の3をご覧ください。世界教会協議会の様子を報告した私たちのニュースレターの抜き刷りがございます。



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世界教会協議会とは、いわゆる「新教(プロテスタント)」と、いわゆる「正教(ロシアやアルメニアなどの教会)」の教会が集まって構成する、約5億人の教会会議です。世界大戦の反省から生み出された協議体であり、長い歴史を積み重ねてきました。その歴史の中で、「平和と正義の関係」が、この数十年の重大課題となってきました。その議論の詳細は資料に詳しく述べましたので、ご覧いただければ幸いです。
この議論は、私たちにとって、示唆的だと思います。つまり、「平和」という概念を、丁寧に理解しなおしてゆく必要が、私たちにある、ということなのです。

(2)「シャローム」の原義
そこで、キリスト教あるいは聖書の用語としての「平和」を改めて確認しておきたいと思います。つまり、「シャローム」の原義です。
旧約聖書学者である太田道子氏は、この語の原義について、「古代ユダヤの社会において、債権者と負債者が、公証人の前で、和解を宣言される語」であることを、私に教えてくださいました。



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この理解は、新約聖書の物語の解釈(つまり神学)において、極めて貴重な手掛かりとなります。例えば、十字架事件のあと、復活したイエスが、弟子たちの前に現れる場面があります。弟子たちは、イエスを見捨てた良心の呵責に悩みつつ、権力による迫害を恐れて怯えている。そうした中にイエスが立ち、そして「シャローム」というイエスは、自分の傷だらけの肉体を弟子たちに見せつけます。負債とその免除が、そこに一息に語られる。「愛と赦し」の宣言が、「シャローム」という語に込められている、と解釈されるわけです。
以上から、キリスト教的平和を、ここで、「愛と許しの宣言」として、確認しておきたいと思います。

(3)熊本震災と津波震災の現場で:キリスト教的支援者の職能
ここで、二つの震災の現場で感じたことを思い出します。
2016年4月18日、私は、東日本大震災の現場に立ち続けている仲間たちと、熊本へ物資運搬の車両の中にいました。丸二日をかけて陸送した支援物資を、私たちは寺院や教会に届け、その後、支援活動にあたっている仏教者・キリスト者を訪ねて、様子を伺い、私たちが覚えている限りの震災現場での経験をお話ししました。そのことは、現在、「臨床宗教師」の働きとして、現地の宗教者の努力により、地道な展開へとつながっています。



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熊本の現場で、私たちは、2011年のことを、ありありと思い出していました。現場は、現場の記憶を呼び覚ます、のだと思います。そこで、私が思い出していたのは、津波の現場において、「愛と許しの宣言」が大きな意味を持つ、ということでした。それは、様々な立場の人々をつなぎ合わせ、ネットワークを作り出す秘訣だったのです。そこに、キリスト教的支援者の職能がある。そのことを、私は、熊本震災の現場で支援に労する仲間に伝えたのでした。


結論
結局、ここで私が申しあげようと思ったことは、「出会った人だけでも支えよう」とする福祉の使命を達成するために、ネットワークが必要だ、ということでした。孤立してしまえば、燃え尽き・困窮し・難民化する。しかし、だからと言って、拙速に制度化してしまえば、使命そのものが危うくなる。だから、緩やかに、しかし確かにつながりあうことが必要だ。そのために、キリスト教的な平和、つまり、「愛と赦しの宣言」が、重要な意味を持つ。ここに、「キリスト教社会福祉」の存在意義が明らかなのではないかと、私は思っております。




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