5年目の春を迎えて。
Café de FUKUSHIMA 活動報告


久しぶりの更新となってしまいましたが、皆さまがいつも祈りに憶えてくださっていることに心より感謝申し上げます。

2016年度が始まりました。
震災から5年目の春を迎えております。
様々な取り組みが転換を迎えているこの春です。
被災地総体としての「復興」は進んでいます。
しかしお一人お一人に眼を転じるなら、そこにあるご苦労は語りつくせないものがあります。

福島県北部で支援を展開されている石川和宏さんのご活動を報告いたします。
いつもご報告を寄せてくださいますことに心から感謝いたします。

今回の石川さんのご報告の最後にこのように記されてありました。

・フクシマの被災者の皆さんと、時を共有するほど、「同情と共生」から距離を置くことはできなくなる。

現場にあられる方の視座と感じます。
場所が離れておられる方も、祈りにおいてはともに現場に立つことができます。
祈りの中で「同情と共生」を求めてまいりたいと思います。

(2016年4月4日 東北ヘルプ理事 阿部頌栄)


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仮設住宅等でのディアコニア報告書


*報告期間:2016 年 2 月 18 日~2 月 27 日
2016 年 3 月 10 日 Cafe de FUKUSHIMA 石川和宏


◇2016 年 2 月 18 日(木) a.m. 横浜発

【1】2016 年 2 月 19 日(金) 南相馬市「小池原畑第 2 仮設住宅」(写真1、2)
・南相馬市小高区からの避難者 108 戸建設 90 戸在住 渡部正行自治会長
・南相馬市社協の仲介 昨年 2 月に続き 2 回目の訪問
・提供したのは、DVD(綾小路きみまろライブ第 2 集)・昼食(豚汁)・カフェ(コーヒーとケーキ)・カラオケ
・奉仕者は、石川和宏

支援の結果
参加者数 21 名(内男性 7 名)
庖丁研ぎ 12 世帯 14 本
豚汁 8 リッ トル(40 人)分、ご飯 15 カップ(炊飯器 2 台)
食事後 8 名の方が残り、3 時頃までカラオケを楽しまれた。
洗い物などよく手伝って頂いた。

皆さまからお聴きしたこと・参加者の様子など
・帰宅したら猿がいた。怖い。
・知り合いは、国道で猿を轢いた。タイヤに挟まってしまい、頼んで外してもらった。
・猫が猿にかじられて化膿してしまい、足を切断した。3 本足になった。
・イノシシが多くなった。
・豚汁とご飯は、持って行ってお父さんの夕食にする。


【2】2016 年 2 月 20 日(土) 南相馬市「小池原畑第 1 仮設住宅」 (写真3、4)
・南相馬市小高区からの避難者 48 戸建設 谷君子自治会長
・南相馬市社協の仲介 昨年 6 月に続き 2 回目の訪問
・提供したのは、DVD(綾小路きみまろライブ第 3 集)・昼食(豚汁)・カフェ(コーヒーとケーキ)
・定刻になっても会場に誰も現れず。初めての(貴重な)経験。
・「仕事に行っている人が多くて参加者が少ない」とのこと。比較的年齢層が若いので、有職者が多いらしい。

皆さまからお聴きしたこと・参加者の様子など
・親戚から、「福島の土産は持って来るな」と言われた。
・「成田もやし」(*)のトラックに「来るな」と書かれた。
*相馬市にあるもやしメーカーのブランド名
・駐車場のゴミ箱に「薄皮まんじゅう」が大量に捨てられていた。
・牛を飼っていた。時々戻って草刈りをしている。火を付けられると怖いので。
・築後 100 年以上の家に住んでいた。余所に家を建てるにしても補償金はごくわずかしか出ない。
・家は片付けをしたのだが、住めないのでその後壊した。
・小高に戻っても買い物は原町に来なくてはならない。
・仮設の風呂は狭い。ビジネスホテルより小さい。
・風呂は、脱衣所がない。カーテンを付けてもらった。
・この仮設は、ハウスメーカーが建てた。他所のプレハブより防音など出来はいい。
・参加者は男性の比率が多くかった。中にはイベントには「ほとんど出ない」という方もおられた。
・お聞きしたところ、解除になっても戻らないという方が多かった。

支援の結果
参加者数 6 名(内男性 3 名)
庖丁研ぎ 5 世帯 5 本

◇2016 年 2 月 21 日(日) (仕込み) (角田キリスト教会)(夕刻石川千鶴子と合流)


【3】2016 年 2 月 22 日(月)「浪江相双会」(*1)南相馬市「八方内仮設住宅」(*2)(写真5、6)
*1 相馬・双葉地方にあるみなし仮設住宅に避難している浪江町民の自治組織
*2 浪江町民が住む。南相馬市にある唯一の浪江町の仮設

浪江相双会根岸会長と八方内仮設住宅高野自治会長と相談し、合同開催になった。共に再訪問
・提供したのは、腹話術・DVD(綾小路きみまろライブ第 3 集)・昼食(豚汁)・カフェ(コーヒーとケーキ)
・奉仕者は、石川和宏・石川千鶴子
・イベントが終わった後も半数くらいの方が残っておしゃべりをしていた。
・相馬市にも同じような自治会組織があり、会のお世話をしている方からお招きを受けた。

支援の結果
参加者数 18 名(内男性 6 名)
庖丁研ぎ 7 世帯 7 本
普段は会うことのない方々であり、村での知り合いに会って会話が弾んでいた。

皆さまからお聴きしたこと・参加者の様子など
・浪江では、夫婦で年 160 俵の米を作っていた。
・牛を 50 頭飼っていた。乳牛は、一日でも搾乳をしないと乳腺炎になる。全頭を注射で殺処分した。
・南相馬に家を建てて暮らしている。
・浪江では、夫婦と母親で暮らしていた。母親は、「浪江に帰れなくても自分の家で死にたい」と言うので、がんばって南相馬市に家を建てた。それから一年余りで母親は死んだ。しかし、近所には誰一人浪江の人はおらず、付き合いもない。今の地域での暮らしは厳しい。笑うこともなくなった。こういうこと(イベント)は、有り難い。
・震災後、いろいろあって息子夫婦は離婚した。住居はやっと新しくなったが、元の家族ではないので、辛い。
・みなし仮設は、(孤立しているので浪江の)知り合いに誰も会えない。しゃべる人も、一緒に笑う人もいない。
・みなし仮設に居て、近所付き合いに一歩を踏み出せない。それには社交性や度胸が要ると思う。
・浪江の人が相馬に家を建てても、周囲の人のことが気になって、引き籠もりみたいになる。
・家を建てて仮設を出た人で、「仮設に戻りたい」と言う人もいる。
・復興住宅に入る予定だが、その土地の造成も未だしていない。
・(親が浪江に戻っても)娘に、「浪江には行かない」と言われている。
・イベントが終わった後も半数くらいの方が残っておしゃべりをしていた。
・相馬市にも同じような自治会組織があり、会のお世話をしている方からお招きを受けた。


【4】2016 年 2 月 23 日(火) 福島市松川町「旧松川小仮設住宅」(写真7、8)
・全員が飯舘村からの避難者 46 戸建設 昨年 6 月に続き 2 回目の訪問
・飯舘村生活支援対策課の仲介
・提供したのは、腹話術・DVD(綾小路きみまろライブ第 3 集)・昼食(豚汁)・カフェ(コーヒーとケーキ)
・奉仕者は、武田巌執事(横浜長老教会)・鹿島千代乃執事(同)・石川和宏・石川千鶴子
・近くの公園の線量表示は、0.14μSv あった。

支援の結果
参加者数 11 名(全員女性)
庖丁研ぎ 4 世帯 4 本
皆さまからお聴きしたこと・参加者の様子など
・終戦前は尋常小学校高等科 1,2 年生(今の5,6年生)だった。勉強はほとんどしなかった。
・昭和 4 年生まれ。戦争中は磐城の四ツ倉にいた。米軍機の機銃掃射も経験した。
・雲雀ヶ原(*)で飛行機を見物した。
*旧日本陸軍原町飛行場で雲雀ヶ原(現在の南相馬市原町区馬場・大木戸
・上太田・本陣前一~三丁目辺)にあった。戦争末期には特攻隊(国華隊と神州隊)として九州経由沖縄などに向けて出撃し、300名以上のパイロットが戦死)
・焼夷弾は凄かった。裸足で逃げた。
・3.11 の時は、余震が怖くて玄関の戸を開けて寝ていた。雪がそこから吹き込んで寒かった。
・原発爆発後は、二本松→埼玉→新潟→沼尻(猪苗代町)を経て 2011 年 7 月にこの仮設に入った。
・(85 歳の婦人、一人暮らし)もう長いこと村には帰っていない。家がどうなっているかは分からない。
・飯舘村にあるものは、汚染されていて持ち出せない。財産が多い人は大変だ。
・ここ(福島市松川町)よりも飯舘の方が寒い。飯舘の寒さは耐えられるがここは耐えられない。エアコンの暖房では暖かくない。
・近くに家を建てて引っ越す予定だ。

◇2016 年 2 月 24 日(水) (仕込み)


【5】2016 年 2 月 25 日(木) 本宮市「石神第 1 仮設住宅」「石神第 2 仮設住宅」 (写真9、10)
・第 1 と第 2 の合同で開催 両方で 137 戸建設 第1は 27 世帯が住んでいる。
・全員が浪江町からの避難者 初訪問 大倉満自治会長(名刺の一番上段にに「福島第一原発事故・避難民」と表示されていた。異例ではあるが、的確な表記)
・浪江町生活支援課避難生活支援係の仲介
・提供したのは、腹話術・DVD(綾小路きみまろライブ第 3 集)・昼食(豚汁)・カフェ(コーヒーとケーキ)
・奉仕者は、石川和宏・石川千鶴子

支援の結果
参加者数 22 名(内男性 7 名)
庖丁研ぎ 10 世帯 12 本
皆さまからお聴きしたこと・参加者の様子など
・この方の息子さんは未だ(津波で流された遺体が)見つかっていない。
・津島は避難者が一杯で、雲雀が原で野営していた自衛隊の所に行った。家族は飯舘村に行った。
・乳牛を飼っていたが、2011 年 5 月に浪江から連れ出した。
・牛は、自分の餌を運ぶ車の音を聞き分けて寄ってくる。
・乳牛には東北の草を喰わせられない。今日喰わせると翌日には乳に放射能が出る。一旦そうなると皆(酪農家)に迷惑をかける。
・浪江で牛が脱走すると捕まえに行かなくてはならない。
・浪江で牛を飼い続けている人もいる。
・原発事故後、大熊町や双葉町は、早々に避難指示が出たが、浪江は一日遅れた。それでも 2~3 日間のことのように言われたので、上着も着ず、何も持たずに出掛けたまま今に至っている。
・8 月にここに入居するまで転々としたが、寒くて大変だった。
・(原発から 12 ㎞に住んでいた婦人)自宅の除染に立合うように言われ出向いたが、家の直ぐ裏の山の斜面は除染しないと言われた。
・ゴミはまとめて指定場所に持って行かないと処分してくれない。庭木も自分で切って運ばないと除染の対象から外される。私たちはまだそれが出来るが、できないお年寄りの家も多く、除染は徹底されない。
・(80 歳代の婦人)原発から 10 ㎞の家に息子一家と 5 人で暮らしていた。米を作っていた。築後 20 年の家だが「見ると辛くなるから」と言って息子は(浪江の家に)連れて行ってくれない。
・息子は転勤で東京に居る。わたしも来るように言われているが、この年になって東京暮らしは嫌なので仮設で一人暮らしをしている。
・この仮設は、給水設備が屋根にあって、冬は凍って午前中は水が出ない。その後シャーベットが出る。夏は熱くなり、風呂は沸かさなくても入れる。
・失ったものを考えないで前向きに生きようと考え、こういうイベントには出席するようにしている。
・最初の頃は、田植えが終わった田んぼを見ると、泣けて仕方がなかった。
・(男性)この年齢になって、「先が見通せない」というのは、厳しい。
・きみまろの DVD を見ても一度も笑えなかった。大学病院でストレス度検査(血液検査)を受けたがこれ以上はないというレベルの値だった。


【6】2016 年 2 月 26 日(金) 福島市笹谷 「笹谷東部仮設住宅」(写真11、12)
・140 戸建設 129 世帯在住 全員が浪江町からの避難者 初訪問 大和田俊行自治会長
・浪江町生活支援課避難生活支援係の仲介
・提供したのは、腹話術・DVD(綾小路きみまろライブ第 3 集)・昼食(豚汁)・カフェ(コーヒーとケーキ)
・奉仕者は、石川和宏・石川千鶴子
・どこでも記念写真を撮っているが、みんなで拳を上げた写真も撮る。その際の掛け声は、皆さんに選択して頂いている。「浪江頑張ろう!」「浪江に戻るぞ!」「浪江を返せ!」の三択をして頂いたが、「浪江を返せ!」が圧倒的だった。
どこの仮設でもほとんど同じだが、これが皆さんの心境を最もよく表す言葉である。

支援の結果
参加者数 24 名(内男性 4 名)
庖丁研ぎ 12 世帯 12 本
皆さまからお聴きしたこと・参加者の様子など
・3.11 後、我々には知らされなかったが、東電関係者はバスで逃げた。何でこんなにバスが通るのだろうと思った。
・電力会社は嘘つきだ。顔を見るのも嫌だ。
・288 号線(*)で逃げた。 *双葉町から三春町を経由し郡山まで。原発の北側 3 ㎞内を通る。
・家から 5m 以内しか除染しない。出来ないと言う。
・除染しても家は 4μSv ある。裏山は 6μSv だ。
・除染後でも、家は 3μSv、後ろの山は 5μSv ある。戻れない。
・汚染された土を掘ってまた埋め戻す(その後覆土)。除染ではない。
・家の鍵を壊された。補償金をもらって金があるだろうと思われる。(狙われるので)帰っても防犯上問題だ。
・(人は戻らないので)浪江は自然消滅するだろう。
・放射能で今苦しんでいるが、その前は東電のお陰で潤っていた。浪江の若い人たちはたくさん東電で働いていたのだから余り文句は言えない。
・昔からの家は(構造上)動物の出入りが多く、荒れ方がひどい。今風の家はそれがないので家の傷み方は少ない。
・ここの近くに中古の家を買ったが、ここには友達が居るので離れがたい。引越が延び延びになっている。
・兼業農家だが、米も野菜もかなり作っていた。息子一家と一緒に暮らし、老後は安泰だと思っていたが、田畑も使えず、息子一家とも別々で、人生が変わってしまった。
・(70 歳代の夫妻)たくさんの畑があり、養蚕もしていた。大きな家があったが帰らないことに決め、家は壊した。子供たちや孫たちが帰れないところに私たちが帰るわけにはいかない。
・家を壊したら税金が 6 倍になった。使えない田畑も税金を払っている。
・来春解除になるらしいが、どれだけの人が帰るか分かるまでは、帰るかどうか決められない。

◇2016 年 2 月 27 日(土) 片付け・掃除・補充品確認 a.m.中に横浜へ


【7】 今回の支援のまとめ
・今回出会い支援させていただいた方 7 仮設住宅・1避難者自治会 173 名(内男性 33 名) 庖丁研ぎ 82 世帯 91本
・今回は、小高区民(南相馬市)2 ヶ所、飯舘村民(福島市)1 ヶ所、浪江町民(南相馬市・福島市・本宮市)5 ヶ所、7 仮設住宅 1 避難者自治会、合計 8 ヶ所を訪問した(この内 3 ヶ所は新訪問先)。
・メニューは、昼食(豚汁)・カフェ・DVD 上映・腹話術・カラオケ・庖丁研ぎ
・今回も、チラシ配布やポスター出しは、全て引き受けて頂いた。当日は、資材搬入から配膳・食器洗い・車への積み込みまで、皆さんに手伝って頂いた。
・横浜長老教会(日本キリスト教会)から武田巌執事・鹿島千代乃執事が手伝いに来てくださった。横浜長老教会では、このディアコニアの予定を週報に載せて教会員に支援を勧めていると聞いた。大変感謝なこととである。
・「3年目の忘却」とか「風化」も(たまに)指摘されるが、被災者の皆さんにとって、分厚い支援者の存在(を眼で見ること)は、少なからぬ励ましになると思う。
・次回は、3 月 16 日出発で、11 日間・6 ヶ所の仮設住宅支援などを行う予定。3 月 21 日には、名古屋岩の上教会主催の「春の一日ピクニック」の手伝いをする。


【8】 フクシマから見えてきたこと
・仮設住宅によっては、居住者が減少している所もあった。避難生活も丸 5 年という長い年月が過ぎ、「帰りたい」という思いが実現不可能と分かり、帰還をあきらめ他所で自宅を再建したり復興住宅に移ったりする方が増えている。
・一方で、仮設住宅には、先の見通しを持てない方が残る。そして、劣悪な住環境での生活が延々と続く。
・相馬市立中央病院内科医長が、「原発事故の健康影響、被曝より長期の避難生活がリスク」「放射能以外の健康被害がむしろ深刻」(日本経済新聞 2016/3/8)と語っている。仮設の方は、被曝のリスクを少なくするために線量の高いところから避難している。国にも責任がある原発事故によって、5 年以上も 4 畳半に 2 人を住まわせるのは、憲法 21条(*)に違反する。
*日本国憲法第 25 条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
・今後は、「除染で 20 ミリシーベルト以下になったので戻れ」→「戻れるようになったので賠償は打ち切り」→「仮設住宅は閉じる」という事態が、半年から1年経てば南相馬市・浪江町・飯舘村などの各地で起こってくる。
・しかし、それでも「買い物が出来ない」「隣近所は居ない」「病院はない」「子供たちは来ない」「作物は作れない」「線量は相変わらず高い」、こういう状態はなくならない。
・フクシマは、過疎に近い地域であっても、大家族・地域の助け合い・食料などの自給というようなソフト・ネットワークで生活が成り立っていた。長い歴史を経て形成された地域の文化であるが、積み木のようでもありとても外乱には弱い。
原発事故・放射能は、正に一撃でこれを破壊した。どう取り繕っても元には戻せない。「復旧」「復興」などあり得ない。まして、「オリンピックまで」などと期限を切ることは、本末転倒で、被災者にとって理解し難いことである。
・フクシマの被災者の皆さんと、時を共有するほど、「同情と共生」から距離を置くことはできなくなる。



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